Romans 2:17-29 ASV

■ユダヤ人は、律法を誇りにしていたの?

□うん。律法によって神さまのみこころを行っていると思ってたのだ。

★ここがポイント
この手紙を書いたパウロ自身がユダヤ人だったので、ユダヤ人の状態をよく理解していた。それで、自分と同じ民に対して、矛盾を伝えているのだ。

人は、何かと傲慢になりやすい。確かに、ユダヤ人は、神さまから選ばれた民族やったねんけど、結果として、神さまの前に自分が正しく歩んでいる者だって勘違いしてしまったのだ。
そして人は【罪を認めない→十字架の救いはいらない】へとつながっていく。『また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。(マタイ 7:3)』 救いという視点で見ると、やはり自分は罪ある人間であるって認識する必要があるよね。

ユダヤ人とは立場は違うけど、私たちにも言えることは、自分は罪のない人間だとは思わないことって大切だと思う。他人の罪は何かと気が付きやすいもの。罪を無視してはいけないけど、自分にも罪があるのを認めておくことは大切やなぁ。

■じゃあ律法を守ればいいの?

□いや、それは人間にはできない。

★ここがポイント
注意することは、律法は完全に守れば意味があるけど、それは人間には守る力がないということ。
次の3点をポイントとして挙げておくね。

(1)『律法』は良いものであるということ。
(2)『律法』は、神さまのみこころに沿って歩み続けるのを目的として与えられたものではないということ。
(3)律法はイエスさまのもとへと導く養育係であるということ。

イエスさまを信じた私たちはその支配の中にはいないのだ(ガラテヤ 3:24・25)

私たちには、律法によって神さまのみこころを行うことができない、むしろ罪があるということがますます明確になっていくんやけど、そんな私たちの罪のためにイエスさまが十字架の上で血を流して犠牲を払って下さったのは本当にすごいことやよねっ!