Fri, Jan 2, 2009
【ローマ 4:1-8】『肉』と『不敬虔』
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■なぜここで、パウロはアブラハムやダビデを例に挙げている?
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□ユダヤ人のヒーローのような存在だから。
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【ここがポイント】
『アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。(マタイ 1:1)』
マタイによる福音書を見ると、一番初めはこのような言葉から始まる。
アブラハムはユダヤ民族の父であり、その子孫を大いに祝福すると約束された。割礼は、その約束のしるしでもあるのだ。
ダビデもまた、ユダヤ人の王となった人で、ダビデの子孫を通して救い主があらわれることを神さまから約束されていた。
アブラハム、ダビデが例として挙げられているのは、ユダヤ人なら誰でも知っている超有名人で、すごく尊敬されていたからなのだ。
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■肉ってなに?
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□『見た目』のことや『神さま以外の力』のこと。
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【ここがポイント】
『肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。』という言葉は、別の訳で『私たちの父祖アブラハムは、肉による場合は、どうでしょうか。』ということ。
人は何かと、神さま以外に頼ってしまうことが多い。聖書の『肉』という言葉は、『外面的なもの』とか『神さま以外の力』のことを言うことが多い。
律法を持ち、割礼を受け、優れた者であると思っているユダヤ人は、自分は敬虔で神さまに従って歩んでいると思い込んでいた。
人は、すぐに自分で『神』を作り出してしまう。神さまを礼拝していると思いながら、本当は、自分の善良さを礼拝してしまうことだってありえるのだ。
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■不敬虔な者を義とする?
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□神さまは、敬虔な人を義とするのではなく、不敬虔な人を義とする。
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【ここがポイント】
救われた私たちは、このイエスさまのすばらしさを知って、すべてを神さまに傾けて、神さまをより喜ばせ、自分のできるすべてのことをするよう努めるようになるかもしれない。
でも、それは、私たちを救うわけでもないし、私たちが敬虔だからとか、敬虔になるために、それをするわけではないのだ。
私たちも、『奉仕』、『伝道』、さらには『祈り』、『信仰』だって、自分を誇りとする可能性がある。
でも本当に私たちに誇れるものは何もない。
私たちは、常に肉の弱さがある不敬虔な者であると認めつつ、そんな私をも愛して下さっている神さまに、これからも寄りかかっていきたいなぁっ!
『イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ 2:17)』
◆感じたこと
クリスチャン生活をしている中で、
自分は『たくさん奉仕をしている』とか、『たくさん神さまにお祈りしている』とか、『たくさん聖書を学んでいる』とか、過去に、そう思ったことがある。
もちろん、奉仕することも、お祈りすることも、聖書を学ぶことも、たくさんできるということは、すばらしいことであり、感謝なことだけど、そこに自分を誇りとすると、神さまの前に無価値になってしまう。
いま考えると、『あ、あの時のおれ、あほやな』って思うっ 。。
たいてい、そう自分を誇りとするときは、『誰々と比較して』ということを潜在的に考えているって気がする。
神さまが救いを与えたのは、誰も誇ることのないため。
もしクリスチャン同士の中に行いによる『誇り』があったら、『裁き』も出てくるわけで、本当に安息できる集まりにならない。
僕らは、そもそも互いに神さまの前に無力で愚かであることに気づくことって大事だなぁっ。
もちろん、神さまによって救われた自分は、
神さまにあって奉仕することは大切なことだし、
大胆に神さまにお祈りできる立場ってすごいことだし、
神さまのみこころは何であるか、神さまがどのように僕を取り扱ってくださっているかがわかる聖書を、自由にどうどうと読めるということも、
感謝しつつ、これからも、より出来たらいいなって思う(^^)!
■なぜここで、パウロはアブラハムやダビデを例に挙げている?
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□ユダヤ人のヒーローのような存在だから。
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【ここがポイント】
『アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。(マタイ 1:1)』
マタイによる福音書を見ると、一番初めはこのような言葉から始まる。
アブラハムはユダヤ民族の父であり、その子孫を大いに祝福すると約束された。割礼は、その約束のしるしでもあるのだ。
ダビデもまた、ユダヤ人の王となった人で、ダビデの子孫を通して救い主があらわれることを神さまから約束されていた。
アブラハム、ダビデが例として挙げられているのは、ユダヤ人なら誰でも知っている超有名人で、すごく尊敬されていたからなのだ。
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■肉ってなに?
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□『見た目』のことや『神さま以外の力』のこと。
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【ここがポイント】
『肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。』という言葉は、別の訳で『私たちの父祖アブラハムは、肉による場合は、どうでしょうか。』ということ。
人は何かと、神さま以外に頼ってしまうことが多い。聖書の『肉』という言葉は、『外面的なもの』とか『神さま以外の力』のことを言うことが多い。
律法を持ち、割礼を受け、優れた者であると思っているユダヤ人は、自分は敬虔で神さまに従って歩んでいると思い込んでいた。
人は、すぐに自分で『神』を作り出してしまう。神さまを礼拝していると思いながら、本当は、自分の善良さを礼拝してしまうことだってありえるのだ。
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■不敬虔な者を義とする?
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□神さまは、敬虔な人を義とするのではなく、不敬虔な人を義とする。
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【ここがポイント】
救われた私たちは、このイエスさまのすばらしさを知って、すべてを神さまに傾けて、神さまをより喜ばせ、自分のできるすべてのことをするよう努めるようになるかもしれない。
でも、それは、私たちを救うわけでもないし、私たちが敬虔だからとか、敬虔になるために、それをするわけではないのだ。
私たちも、『奉仕』、『伝道』、さらには『祈り』、『信仰』だって、自分を誇りとする可能性がある。
でも本当に私たちに誇れるものは何もない。
私たちは、常に肉の弱さがある不敬虔な者であると認めつつ、そんな私をも愛して下さっている神さまに、これからも寄りかかっていきたいなぁっ!
『イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ 2:17)』
◆感じたこと
クリスチャン生活をしている中で、
自分は『たくさん奉仕をしている』とか、『たくさん神さまにお祈りしている』とか、『たくさん聖書を学んでいる』とか、過去に、そう思ったことがある。
もちろん、奉仕することも、お祈りすることも、聖書を学ぶことも、たくさんできるということは、すばらしいことであり、感謝なことだけど、そこに自分を誇りとすると、神さまの前に無価値になってしまう。
いま考えると、『あ、あの時のおれ、あほやな』って思うっ 。。
たいてい、そう自分を誇りとするときは、『誰々と比較して』ということを潜在的に考えているって気がする。
神さまが救いを与えたのは、誰も誇ることのないため。
もしクリスチャン同士の中に行いによる『誇り』があったら、『裁き』も出てくるわけで、本当に安息できる集まりにならない。
僕らは、そもそも互いに神さまの前に無力で愚かであることに気づくことって大事だなぁっ。
もちろん、神さまによって救われた自分は、
神さまにあって奉仕することは大切なことだし、
大胆に神さまにお祈りできる立場ってすごいことだし、
神さまのみこころは何であるか、神さまがどのように僕を取り扱ってくださっているかがわかる聖書を、自由にどうどうと読めるということも、
感謝しつつ、これからも、より出来たらいいなって思う(^^)!